HISTORY

BIOGRAPHY
1952.4.4
北アイルランドのベルファストに生まれる。5人兄弟の長男。父が音楽のプロモーターをしていたことから、早くから音楽に興味を持ち始める。
1958
父親のボビー・ムーアの経営するクラブ・ア・ゴーゴーでマイクスタンドに顔が届くように椅子の上に乗って「シュガータイム」を歌う。これがゲイリーのステージデヴュー。
1959
父親の勧めでピアノのレッスンをスタート。しかし教師に定規で手をぶたれて挫折。ボーイスカウトに入るが、池に突き落とされて挫折。

 
1962.
父親に10ポンドのフレイマス・アコースティックのギターを買ってもらい、ギターを始める。いったんは教師につくが、シャドウズの「ワンダフル・ランド」をプレイして手のポジションが悪いと手をぶたれる。それ以来は独学。ゲイリーは左利きなのに右利きのギターを使っているのは、はじめたころそれが当たり前と思っていたから。また、弦高が異常に高かったが、やはりそういうものだと思ってプレイしていた。
1963.
ピアノの教師とのトラブルが続き、ごく短期間で授業を放棄。両親の了解を得て、ギターに転向する。そして、ジョン・メイオール・ブルースブレイカーズ、ジミ・ヘンドリックス、ジェフ・ベックなどをコピーし始めた。当時使っていたギターは、5ポンド(現在、約1,200円)で購入したドイツ製のアコースティック・ギターだった。
1965.
父親に初めてのエレキ・ギターであるヴォックス・クラブマンを買ってもらい、ザ・ビート・ボーイズをラボ・ウィルキンスン(ds)、ビル・ダウニー(g)、ボブ・トンプソン(b)と結成。「リトル」ゲイリーは神童として話題を呼ぶ。レパートリーはビートルズやストーンズ・ナンバーだったが、ゲイリーは「ファンが聴きたいものなら何でもプレイするぜ!」と語っている。6ヵ月後ヴォックスをロセッティ・ラッキー・スクワイアにチェンジ。
1966.
ショーバンド「デイヴ&ザ・ダイアモンズ」参加を条件に父親にフェンダー・テレキャスターを月賦で買ってもらう。

すぐにデイヴ&ザ・ダイアモンズのベーシスト、ドラマーとで「プラットフォーム・スリー」を結成。ギブソンSGを使うようになる。
1967.
人気セミプロ・バンド「ザ・メッソド」のギタリストが怪我をした為、代役として加入。親元を離れダブリンに移住する。
1968.
対バンだったスキッド・ロウに誘われ加入。メンバーはブレンダン・ブラッシュ・シールズ(b/vo)、ノエル・ブリッジマン(ds)、フィル・ライノット(vo)。フィル・ライノットとジョニー・デュハン(グラニーズ・インテンションズのシンガー)と同居する。
1969.5
スキッド・ロウのデビューシングル”New Places Old Faces”(Song)をアイルランドのみでリリース。この時期ドラムスはロビー・ブレナン。

その後フィル・ライノットは脱退。シン・リジィを結成する。
1965.10
スキッド・ロウのセカンド・シングル”Saturday Morning Man”(Song)をアイルランドのみでリリース。

ゲスト参加したザ・ジェイコバイツのシングル”Like Now”(Pye)リリース。
年末、ダブリンのナショナル・スタジアムでのコンサートでスキッド・ロウがフリートウッド・マックのサポートを行う。ギタリストのピーター・グリーンに評価され、イギリス進出が決まる。
スキッド・ロウ、ファーストアルバム「Dublin Gas Comy,Cooker & Meter Factory」をレコーディング。イギリス進出の為、いったんお蔵入りになるが、1983年にCBSからリリースされる。
1970.
4月、スキッド・ロウの英国進出第1弾シングル”Sandy’s Gone”(CBS)リリース。その後、渡米し数回ギグを行う。
1970.1
スキッド・ロウ、デビュー・アルバム「スキッド」をリリースする。

ゲスト参加したグラニーズ・インテンションズのアルバム「Honest Injun」とシングル”Take Me Back”(Decca)をリリース。ゲスト参加したDr.ストレンジリー・ストレンジのアルバム「Heavy Petting」(Vertigo)リリ―ス。ピーター・グリーンが音楽業界から引退するというので例のギブソン・レスポールを160ポンドで譲ってもらう。
1971.9
スキッド・ロウ、2作目の「34時間/34HOURS」をリリース。
1971.12
スキッド・ロウを脱退(ゲイリーの後任には元UFO/現ウェイステッドのポール・チャップマンが加入)。一時、故郷のベルファストで休養するが、再びロンドンに戻り、初のソロ・プロジェクト、ザ・ゲイリー・ムーア・バンドを結成する。パーマネント・メンバーにジョン・カーティス(b)、ピアース・ケリー(ds)を迎え、アディショナル・メンバーにフィリップ・ドネリィ(g)、フランク・ボイラン(b)、そして後にキャメルに参加するヤン・シェルハース(key)らが顔を並べていた。そして、レコーディングに入る一方、クラブ「マーキー」を中心とするクラブ・サーキットをスタートする。
1973.5
ザ・ゲイリー・ムーア・バンド、唯一のアルバム「GRINDING STONE」リリース。
1973.12
ゲイリー・ムーア・バンド、メンバー・チェンジを数回行うが、結局起動には乗らず自然消滅してしまう。
1974.1
旧友フィル・リノットの要請により、オリジナル・ギタリスト、エリック・ベルの後任として、シン・リジィに参加。
1974.4
ゲイリーがレコーディングに参加した、シン・リジィにとって4枚目のシングル”Little Darling” b/w “Buffalo Girl”リリース。と同時に、音楽的方向性の相違でシン・リジィを脱退。
1974.11
ゲイリーがレコーディングに参加した、シン・リジィのヴァーティゴ移籍第一弾「ナイト・ライフ/NIGHT LIFE」リリース。
1975.5
ジョン・ハイズマン(ds)、ドン・エイリー(key)、マイク・スターズ(vo)と、コロシアムⅡをスタート。
1976.4
コロシアムⅡ、デビュー作「ストレンジ・ニュー・フレッシュ/STRANGE NEW FLESH」を発表。
1976.8.28
コロシアムⅡ、「第16回レディング・フェステバル」の2日目に出演。共演は、キャメル、ロリー・ギャラガーら。
1976.9
コロシアムⅡより、ニール・マーレイとマイク・スターズが相次いで脱退。代わって、ジョン・モール(b)が参加し、バンドは初の大規模な全英ツアーを励行する。
1977.1~
コロシアムⅡに籍を置いたまま、腕を負傷を負ったブライアン・ロバートソンのピンチ・ヒッターとして、シン・リジィの全米ツアーに同行。クイーンと共に全米各地をサーキットし、帰国するがコロシアムⅡの全英ツアーをキャンセルし、6月までシン・リジィと行動を共にする。
1977.4~
本格的なソロ・デビュー作「バック・オン・ザ・ストリーツ/BACK ON THE STREETS」のレコーディング開始。プロデューサーは、クレス・サンガリーディス。
1977.6
コロシアムⅡ、2作目の「エレクトリック・サベージ/ELECTRIC SAVAGE」発表。
1977.11
コロシアムⅡ、3作目の「ウォー・ダンス/WAR DANCE」リリース。
1978.8
コロシアムⅡを脱退。シン・リジィに正式加入。当時のライン・ナップはフィル・リノット(vo/b)、スコット・ゴーハム(g)、ブライアン・ダウニー(ds)だった。
1978.9~
後にヘヴィ・メタル・キッズの中心人物となるゲイリー・ホルトン(vo)、フィル・リノット(vo/b)、後にレインボー/ワイルド・ホーシズ、ディオと渡り歩くジミー・ベイン(b)、ラット・スキャビーズ(ds)らと、ごく短期間、グリーディ・バスターズなるセッション・バンドを組む。
1978.12
初のリーダー・アルバム「バック・オン・ザ・ストリーツ」が発表される。フィル・リノット(vo/b)、ブライアン・ダウニー(ds)、ドン・エイリー(key)、サイモン・フィリップス(ds)らがサポートしていた。全英アルバムチャートで70位を記録する。自作のインストゥルメンタル曲の他、リノットとの共作曲を収録。[「パリの散歩道 (Parisienne Walkways)」はUKシングル・チャート8位(最高位)を記録する。
1979.1.10
イギリスのTV番組「Old Grey Whistle Test」にライブ出演。参加メンバーはフィル・ライノット(b

ゲイリーとフィルのトラブルが表面化。シン・リジィの初来日公演直前にゲイリーは脱退してしまった。
1979.10
元PIPEDREAMのウィリー・ディー(vo)、トニー・ニュートン(b)、元イアン・ギラン・バンドのマーク・ナシーフ(ds)のアメリカ人3人と、念願のリーダー・バンド、Gフォースを結成。その後、彼らはJETレコードと契約。ゲイリーがセッション参加した、コージー・パウエルのファーストソロアルバム、「OVER THE TOP」リリース。中でもライブ録音された「Killer」の演奏は圧巻のギタープレイが聴ける。後に自身でカバーする「The Loner」も収録。
1979.11
ジャック・ブルース(b)、ドン・エイリー(key)らと共に、イギリスのBBC-TVのプログラム”オールド・ウィッスル・テスト”に出演。”キラー””ザ・ローナー”の2作品を演奏した。
1980.6
ゲイリーが参加した、フィル・リノットのソロ・デビュー作「ソホー街にて/SOLO IN SOHO」が発表される。
1980.7
G・フォース、最初で最後のアルバム「G.FORCE」リリース。と同時にシングル”Hot Gossip”b/w”Because Of Your Love”を発表した。
1980.8
G・フォース、ホワイトスネイクとの全英ツアーを終え、「第20回レディング・フェステバル」に出演が決定した直後、突然、空中分解。ゲイリーと他の3人のメンバーとの音楽的意見の対立が原因とされている。
1980.10~
現ヴィクトリィのチャリー・ハーン(vo)、現ディオのジミー・ベイン(b)、現ドライヴァーのトミー・アルドリッジ(ds)らと、急遽ゲイリー・ムーア&ヒズ・フレンズを組閣。
1980.11.1
ゲイリー・ムーア&ヒズ・フレンズ、JETレコードとの契約消化のため、「マーキー」でライヴ・レコーディング。
1981.1
コージー・パウエル(ds)らと、新たなリーダー・アルバムの制作に着手。両者の間に新バンド結成の気運が高まるが、契約上の問題からアルバムは遂ぞ発表されることなく、また新バンドの方も青写真の段階で終わっている。よって、ゲイリーは同じマネージメントに所属していたグレッグ・レイク・バンドに力を貸すことになった。
1981.6
ゲイリーがセッション参加した、コージー・パウエルのセカンドソロアルバム、「TILT」リリース。「The Blister」「Sunset」で演奏しており中でも「Sunset」は彼の名演の中でも代表曲。
1981.8.30
ゲイリーをフューチャーしたグレッグ・レイク・バンド、「第21回レディング・フェスティバル」の3日目のトリを務めた。ゲイリーはその後の全英、全米ツアーにも同行した。
1981.10
グレッグ・レイク・バンド、デビュー作「グレッグ・レイク&ゲイリー・ムーア/GREG LAKE」をリリース。
1981.12
ゲイリー・ムーア&ヒズ・フレンズ名義による、3曲入り12インチ・シングル”Nuclear Attack” b/w “Run To Your Mama”が発表される。
1982.5~
JETレコードとのトラブルをクリアにし、新たにヴァージンとソロ・レコーディング契約を締結。ただちに、リール・マーレイ(b)、イアン・ペイス(ds)、トミー・アイアー(key)らとレコーディングに突入。
1982.8.25~
8月25日、26日の両日、ロンドンの「マーキー」でお披露目ライヴを行う。この時のラインナップは、ゲイリー、ニール、イアン、トミー、そしてチャーリー・ハーン(vo)の5人であった。
1982.8.28
ゲイリー・ムーア・バンド、「第22回レディング・フェスティバル」の2日目に、コ・ヘッドライナーとして出演し、大喝采を浴びる。メンバーは、「マーキー」出演時と同じ。
1982.9
ゲイリー・ムーア・バンド、正式にパーマネント・メンバーを発表。ニール・マーレイ(b)、イアン・ペイス(ds)、ジョン・スローマン(vo)を加えたラインナップ。
1982.10
ヴァージン移籍第一弾。通算2作目のソロ・アルバム「大いなる野望/CORRIDORS OF POWER」リリース。
1982.12
ドン・エイリー(key)、ゲイリー・ムーア・バンドに加入。と同時に全英ツアー・スタート。サポートを務めたのは、サムソンとスタンピードだった。
1983.1~
ゲイリー・ムーア・バンド、初来日。1月22日~2月1日まで、東京、大阪、名古屋、京都、福岡で計9回の公演を行った。
1983.2
ゲイリーがセッション参加した、コージー・パウエルのソロ3作目、「オクトパス/OCTPUSS」リリース。この頃、ゲイリー・ムーア・バンドからジョン・スローマンが離れる。
1983.5
初来日公演の模様が収録されたライヴ・アルバム「ロッキン・エブリ・ナイト~ゲイリー・ムーア・ライヴ・イン・ジャパン」
1983.7
JET時代のおクラ入りとなっていたスタジオ・テイク「ダーティー・フィンガーズ/DIRTY FINGERS」リリース。
1983.9
JET時代に契約消化のためにライヴ・レコーディングした、「マーキー」でのライヴ・アルバム「ゲイリー・ムーア・ライヴ!/LIVE 」リリース。
1983.10
ゲイリーがレコーディングに参加したグレッグ・レイクのソロ2作目、「マヌーヴァース/MANOEUVRSE」がリリースされる。
1983.11
ニール・マーレイ(b)、ゲイリー・ムーア・バンドを脱退。後任に元ロッズ/レインボー/NINJAのクレイグ・グルーヴァーが参加する。
1984.1
ヴァージン移籍第2弾、通算3作目のソロ「炎の舞/VICTIM OF THE FUTURE」リリース。
1984.1~
ドン・エイリー(key)が脱退。その替わりに、元UFO/ギルバート・オサリバン・バンドのニール・カーター(g/key/vo)が加入。
1984.2.4~
福岡を皮切りに2度目の日本ツアーを行う。以後、大阪、名古屋、東京とサーキットする。この後、バンドは全米、全欧ツアーに突入する。
1984.5~
アメリカン・ツアーの途中で、イアン・ペイス(ds)が脱退を表明。急遽、元ビリー・スクワイアー・バンドのボビー・チューナードを迎え入れ、ツアーを続行した。
1984.8.18
イギリスのキャッスル・ドニントンで開催された「モンスターズ・オブ・ロック・フェスティバル」にゲイリー・ムーア・バンド出演。共演は、ヴァン・ヘイレン、オジー・オズボーン、AC/DC、Y&T、アクセプト、モトリー・クルーら。この時、ドラムスはボビーから、既に元ロキシー・ミュージックのポール・トンプソンに交代していた。
1984.12
クレイグ・グルーヴァー(b)、脱退。後任は、元レインボー/オジー・オズボーン・バンドのボブ・ディズリーに決定した。
1985.1
2枚組のライヴ・アルバム「ウイ・ウォント・ムーア~ライヴ!! ゲイリー・ムーア/WE WANT MOORE!リリース。当初はイギリスのみの発売だったが、86年9月に日本でもCDのみでリリースされた。
1985.3
突然、元トラピーズ/ディープ・パープルのグレン・ヒューズ(vo/b)のゲイリー・ムーア・バンド加入、が伝えられる。
1985.5
ゲイリー、フィル・リノットとの共演シングル”アウト・イン・ザ・フィールド”リリース。このセッションには、ゲイリー、フィルの他、元フランキー・ゴーズ・トゥー・ハリウッドのアンディ・リチャーズ(key)、元ニック・カーショウ・バンドのチャーリー・モーガン(ds)が参加している。その後、ゲイリーはグレン・ヒューズ、ニール・カーターらとニュー・アルバムのレコーディングに突入。
1985.6
音楽的意見の対立が原因で、グレン・ヒューズはゲイリー・ムーア・バンドを脱退。
1985.9
通算5作目のソロ作、「ラン・フォー・カヴァー/RUN FOR COVER」リリース。と同時に9月14日のグラスゴーから15ヶ所の全英ツアーをスタート。この時のラインナップは、ゲイリー、ニール・カーター、ボブ・ディズリー、そして元エディー・マネー・バンドのゲイリー・ファガーソン(ds)の4人。
1985.10.8~
名古屋を皮切りに3回目の来日公演を行う。計6回のコンサートだった。
1985.10.29~
ドイツのエッセンからヨーロッパ・ツアーがスタートする。約1ヶ月サーキットした後、年が明けてから全米ツアーを開始。
1986.6~
サマー・フェスティバルに参加のため、6月3日にギルドフォードで、6月7日にストックホルムで、それぞれウォーム・アップ・ギグを行う。そして、6月28日の「ミルトン・ケインズ・ボウル」でのイベントに出演。共演はマリリオン。
1986.9.3
ゲイリー、作詞/作曲の”The Cross”(邦題”愛の十字架”)が、本田美奈子によってレコード化される。ゲイリーはその外にギター・ソロも担当した。
1986.10.22
ゲイリー、日本のみでニュー・シングル”クライング・イン・ザ・シャドウ”をリリース。この曲は、”愛の十字架”と同じ曲で、歌詞が違う。
1986.12
ニュー・シングル”Over The Hills And Far Away”リリース。
1987.2
シングル”Wild Frontier”リリース。
ゲスト参加したフェリー・エイドのシングル”Let It Be”(The Sun)リリース。
1987.3
通算6作目のソロ作「WILD FRONTIER」発表。3月26日のエジンバラを皮切りに全英ツアーをスタート。メンバーはカーター、デイズリーに加えてエリック・シンガー(ds,元リタ・フォード・バンド)。
1987.4.1~
3月からスタートした全英ツアーが好評のため、ロンドン公演が追加されるなど、予想以上の反響が沸き起こった。この後ゲイリーは、4月4日、オランダのツォールからヨーロッパ・ツアーをスタート。5月中旬までサーキットし、ほぼ西欧圏は制覇した。この間、スウェーデンではドキュメンタリー・タッチのライヴ・ビデオのシューティングが行われた。
1987.5
シングル”Friday On My Mind”リリース。
1987.7.10~
4度目の来日公演のため来日。7月13日から東京3回、大阪1回の計4回公演を行った。もちろん、全公演ソールド・アウト。
1987.7.30~
アメリカ西海岸からクラブ・ツアーがスタートする。今回はアリーナ・クラスでのヘッド・ライナー・アクトとしてのギグはなく、すべてスモール・クラブでの会場が使用された。なお、8月中旬ダラスでは、中規模クラスのヘヴィ・メタル・フェスティバルが開催され、ゲイリーも出演。Y&T、ラウドネス、エース・フレーリー、ファスター・プッシー・キャットらと共演した。
1987.8
シングル”The Loner”をリリース。
1987.9.18
ダブリンのパブSlatterie’sでスキッド・ロウ時代の盟友ブラッシュ・シールズ、ロビー・ブレナンとジャム。
1987.11.13~
イギリスのヴァージン・ビデオから、スウェーデンで収録されたライヴ・ビデオ「Wild Frontier Tour」がリリースされた。また同時に、リミテッド・エディションで未発表ライヴを含む2枚組シングルが発表された。
1988.3
アイルランドのTV番組”The Late Late Show With The Chieftains”に出演、チーフタンズと”Over the Hills”を共演する。
1988.3
ゲスト参加したモォ・フォスターのアルバム「BelAssis」(MMG)をリリース。
1988.10
ゲスト参加したドン・エイリーのアルバム「K2」(ワーナー)リリース。
1988.11
ゲスト参加したキース・エマーソンのアルバム「The Chirstmas Album」(ジムコ)リリース。ゲイリーのパートは82年末に録音されたもの。
1989.1.4
シングル”After The War”リリース。
1989.1
アルバム「After the War」(東芝EMI)リリース。
1989.1
コージー・パウエルがツアーに同行すると発表されるが、突如脱退。急遽クリス・スレイド(元ザ・ファーム)をドラムスに迎える。
1989.3.8~
3月8日~12日、全英ツアー。9日ベルファスト公演はTV放送された。
1989.3.14~
3月14日~4月19日、欧州ツアー。
1989.3
シングル”Ready For Love”リリース。
1989.4.27
ロンドンNatural History Museumでチャリティー・ギグRed Balloon Ballに参加。エリック・クラプトン、デイヴ・ギルモア、フィル・コリンズらと共演。
1989.4
ゲスト参加したヴィッキ・ブラウンのアルバム「Lady of Time」(RCA)リリース。
1989.5.6~
5月6日~13日、5度目の来日。6回公演。
1989.7
米国のみでシングル”Led Clones”(Virgin America)リリース。
1989.9
ロンドンのAstoriaでのコンサート”Jam’89″に参加。ゲイリー・ブレッカー、アンディ・フェア、ウェザー・ロウらとジャム。
1989.10
シングル”Livin’ On Dreams”リリース。
1990.3.
ゲイリー&アルバート・キングのシングル”Oh Pretty Woman”リリース。
1990.3
ブルース・アルバム「Still Got The Blues」(東芝EMI)リリース。
1990.4
シングル”Still Got The Blues(For You)”リリース。
1990.4.30
コペンハーゲンから欧州・英国ツアーがスタート。メンバーは一新してグラハム・ウォーカー(ds)、アンディ・パイル(b)、ドン・エイリー(key)、4人からなるホーンセクション”MidnightHorns”。4月30日~6月1日まではアルバムにも参加しているアルバート・コリンズが同行、2~3曲でプレイした。
1990.5.10
5月10日~11日、ロンドンのHammersmith Odeonで2連戦。この日の模様はビデオ”An Evening of the Blues”(ビデオアーツ)で観ることができる。
1990.7.7
モントール・ジャズ・フェステバルに出演。この日の模様はテレビ中継され、またFMでも放送された。
1990.9
シングル”Walking By Myself”リリース。
1990.10
ゲスト参加したトラベリング・ウィルベリーズのアルバム「Vol.3」(ワーナー)リリース。
1990.11
ゲイリー&アルバート・コリンズのシングル”Too Tired”リリース。
1990.11
ゲスト参加したヴィッキ・ブラウンのアルバム「About Love Life」(ポリドール)リリース。
1991.2.5
アメリカのTV番組David Letterman Showに出演、プレイする。
1991.7
ゲスト参加したモォ・フォスターのアルバム、「Southern Reunion」(MMC)リリース。
1992.2
シングル”Cold Day in Hell”リリース。
1992.3
アルバム「After Hours」(東芝EMI)リリース。
1992.4.6
ジョージ・ハリスンのロンドンRoyal Albert Hallコンサートに出演。
1992.4
シングル”Story of the Blues”リリース。
1992.5.20
LAで「After Hours」ツアー開始。
1992.6.28
ロンドンHammersmith Odeonで「音楽の日」を祝う記念コンサートA Celebration of the Bluesに参加。参加メンバーはミック・ジャガー、バディ・ガイ、ロニー・ウッド他。
1992.7
ゲイリー&B.B.キングのシングル”Since I Met You Baby”リリース。
1992.7.19
故ヴィッキ・ブラウンの為に白血病チャリティ・コンサート”Rock For Leukemia”に参加。他の参加者はジョン・ウェットン、イアン・ペイス、エリック・クラプトン他。
1992.9
ゲスト参加したジミー・ネイルのアルバム「Growing Up in Public」(Eastwest)リリース。
1992.10
シングル”Separate Ways”リリース。
1992.10.4~
10月4日・5日、ロンドンのRoyal Albert Hallで2回のコンサート。ゲストにジョージ・ハリソン、アンディ・フェアウェザー・ロウが参加。
1992.11.11
ロンドンのTown & Country Clubでギグ。この日のコンサートはビデオで収録され、「Live Blues」(A*VISION)で観ることができる。
1993.3
ゲスト参加したポール・ロジャースのアルバム「Muddy Water Blues」(ビクター)リリース。
1993.1.4
シングル”Parisienne Walkways ’93″リリース。
1993.5
ライブアルバム「Blues Alive」(東芝EMI)リリース。
1993.7.2
ロンドンThe Forumでのウォームアップ・ギグの後、ヨーロッパで数回フェステバルに参加。
1993.10
ゲスト参加したアルバート・コリンズの遺作「Collins Mix」(東芝EMI)リリース。
1993.11.2~
11月2日~3日、ケルンで行われたジャック・ブルースの50歳記念コンサートに参加、クリーム・ナンバーを多数演奏。これがBBMの土台となる。
1994.3
ゲスト参加したスノーウィ・ホワイトのアルバム「Highway To the Sun」(ポニーキャニオン)リリース。 ジャックブルース50歳記念LIVE「CITIES OF THE HEART」リリース。
1994.5.26
オックスフォードにて「Virginレコード21周年記念コンサート」にBBM出演。
1994.5
BBM始動。
1994.6
アルバム「 白昼夢/AROUND THE NEXT DREAM」リリース。
1995.4.27
ロンドンの「ジャパーズブッシュエンパイア」にて、「BLUES FOR GREENY」の完成を記念してLIVEを収録。師匠ピーターグリーンも登場。
1995.7
アルバム「BLUES FOR GREENY」リリース。
1996.3
「BACK ON THE STREETS」をプロデュースしたクリス・サンガリーデスと共にニューアルバムの制作に入る。再びロック路線へ噂もでる。
1996.9
マドンナ主演映画「EVITA」のサウンドトラックのレコーディングに参加。
1997.6
アルバム「DARK DAYS IN PARADISE」リリース。
1999.3
ニューアルバム「A DIFFERENT BEAT」のレコーディング完了。
1999.7
モントルージャズフェスティバルにて、BBキング50周年を祝うイベントに参加。総勢22名によるジャムセッションが繰り広げられた。
1999.9GARY
オフィシャルサイト”GARY MOORE WORLD WEB SITE”開設。
1999.9.27
アルバム「A DIFFERENT BEAT」リリース(UK)。USは10/26。日本は11/20の予定が12/1日発売延期。
1999.11
UKツアーの途中で指を負傷し、中旬以降のLIVEを全てキャンセル。
2000.3
指の負傷の為し中止となっていたツアーを再開。
2000.7
ギブソンUSAより、ゲイリームーア・シグネチャレスポールのリリースがアナウンス。
2000.8.7
「エリッククラプトン・ブルーズ・チャリティ・コンサート」に出演。バーニーマースデンらと競演。
2000.9
クリス・サンガリーデスと共にニューアルバムの制作に入る。
2001.2.21
ニューアルバム「BACK TO THE BLUES」の発表LIVEがLONDON CLUBにて行われる。
2001.3.15
GARY参加のJOHN MAYALL & FRIENDSのニューアルバム「ALONG FOR THE RIDE」に参加
2001.3.20
アルバム「BACK TO THE BLUES」リリース(UK US)。日本発売は3/28。
2001.3.31
UKツアー2001スタート 。4/30 Bradfordが最終。
2001.5
ツアーの途中、耳の病気にかかりその後2ヶ月間のツアーがキャンセルされる。
2001.6
シングル”Picture Of The Moon (Single Edit)”がリリースされる。
2001.7
ジャック・ブルースのアルバム 、”Shadows in the Air”が7月にリリースされ、ゲイリーは、2曲プレイしている。
2002.1
Virgin Recordsから「The Best Of The Blues 」がリリース。最初のリリースはライブ音源のボーナストラックが含まれる。
2002.6~11
UKツアー2002。
2002.8
アメリカのSliverline Recordsからアルバム「BACK TO THE BLUES」のDVD AUDIOがリリース。

ニューアルバム「SCARS」リリースと同時にバンド「SCARS」を結成。メンバーはベースにCass Lewis、ドラムスDarrin Mooneyのトリオ編成でブルース路線からロックへ。
2002.9
John Lee Hookerの追悼アルバム「From Clarksdale to Heaven – Remembering John Lee Hooker」の2曲に参加。

アイルランドのチャリティCD「SOUND MINDS」にアルバム「Back To The Blues」に収録されなかった「Livin’ with the Blues」が収録される。
2002.10
日本東芝EMIから過去にリリースされたアルバムのリマスター盤が発売。各アルバムにボーナストラックを収録。

ZZ Topのツアーにスペシャルゲストとして参加。
2003.5
Monsters of Rock” UK tour 2003にスペシャルゲストとして参加。メインアクトはホワイト・スネイク(Whitesnake)とグレートホワイト(Great White)。HR時代の曲をセットリストに演奏しROCKへの復帰を果たす。ツアー中に手に怪我し最終公演はキャンセル。
2003.9
「Live at the Monsters Of Rock」リリース。
2003.10
GARYはじめてのDVD「Live at the Monsters Of Rock」リリース。
2004.4
ニューアルバム「POWER OF THE BLUES」リリース。ベースにBob Daisley、ドラムにDarrin Mooney、プロデュースはクリス・サンガリーデス。
2004.9
ロンドンで行われたフェンダー・ストラトキャスター50周年記念ショウに出演。出演者は他にPaul Carrack,Hank Marvin,The Crickets,David Gilmour, Paul Rodgers,Johnny Marr,Joe Walsh,Amy Winehouse。
2005.8
フィル・ライノットの故郷ダブリンにライノットの銅像が立てられることを記念して行われたコンサートに元シン・リジィのメンバーと共にゲイリー・ムーア・アンド・フレンズとして出演し映像作品としてリリースされた。この年はほぼライヴ活動を行っていない。
2006.4
B.B.キングのファイナルUKツアーをサポートしたほか、リズム・アンド・ブルース、ブルー・アイド・ソウル的な作品『Old New Ballads Blues』をリリースし、数年ぶりのコンサート・ツアーを行なう。
2006.8
チャリティ・コンサート『Vibes from the Vines』では Mo Foster、Gary Husband らとともに出演。
2007
オーティス・ティラーの作品 “Definition of a Circle” に参加。
2007.2
ラジオ番組 “Blues Power, with Gary Moore” で司会を務める。
2007.4
北アイルランドでコンサートを2回行う。
2007.5
アルバム「Close As You Get」をリリース。レコーディングにも参加した元シン・リジィのドラマーであるブライアン・ダウニーが参加してヨーロッパ・ツアーを行なう。
2007.10
ダーレン・ムーニーらとともに『Tribute To Jimi Hendrix』でヘンドリックスの楽曲のみを演奏、ビリー・コックス、ミッチ・ミッチェルと共演した。この様子は2012年映像作品としてDVD、Blueray作品として公開された。
2008.7
モントルー・ジャズ・フェスティバルにてジョン・メイオール&ザ・ブルースブレイカーズのステージにゲスト出演した。この模様はBSジャパンで放映された。
2008.9
「Bad For You Baby」をリリース。
2010.4
21年振りの来日公演が東京、名古屋、大阪で行われた。夏のヨーロッパでのフェスティヴァル・ツアーはニール・カーター、ピート・ルイス、ダーレン・ムーニーらによって1980年代の楽曲が演奏され、ロシア東北部のウラジオストクまでのツアーが組み込まれた。
2011.2.6
休暇先のスペインにて吐瀉物により心臓発作で急逝。59歳の若さで生涯を閉じる。
2011.2.23
15年間暮らしていたブライトンで葬式が行われた。亡骸はミュージシャンである息子のジャック・ムーアが「ダニー・ボーイ」を演奏して葬送された。